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	<title>故郷をデッサンする 「風と遊び土に訊く」</title>
	<link>http://nazuna.omlog.net</link>
	<description>目に映る「大村」のスケッチブックです。</description>
	<lastBuildDate>Wed, 11 Mar 2009 14:46:48 +0000</lastBuildDate>
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		<title>無題</title>
		<description><![CDATA[鍬を握る手の先が
　　　　カシオペア座に繋がる見えない光
土の力への信仰か
さりとて　日常の煩瑣な感情を抑えて
心の安堵を　後から想う　悔悟
わたしへ
思い出せますか
働くということの幸せ
生きていくことの渇きと情けなさは
子どものころに食べた　
綿菓子のよう
]]></description>
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		<title>陽の沈むを</title>
		<description><![CDATA[綿菓子を小さく千切って幾十と 
西の空に撒いたような 
雲が　落日に下から照らされ 
飛魚の鱗がきらめき 
賛美歌が 世のたそがれを 荘厳にことほいぐ 
それは　ときおり琴線を鋭く弾くような 天の啓示のよう 
今日を感謝します 
]]></description>
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		<title>ウェディング</title>
		<description><![CDATA[昨日、甥（25歳）の結婚式に行ってきました。 初めての4親等の結婚式です。 私の長女（未婚）と同じ年なのでそれなりの関心がありました。 テレビで見るような結婚式場に隣接するチャペルでの結婚式でした。 兄嫁の親族でかなり年配のおじいさんが、親族の控え室でどんな式なのか姪に聞いておりましたが、「チャペル式」という返答に理解できない風でした。 いわゆるイケメン風の牧師さん　年のころは30歳前後　すべて英語の儀式でした。 ファッションとしての結婚式にいささか辟易したと言うのが正直な感慨です。 もっとも、自分の結婚式もその当時のファッションであったことは否めませんが・・・ 甥の25歳の若さと言いますか　未だ子どものようなものが結婚をすることの感慨もそれなりの歳を重ねた自分をいまさらながら省みる機会になりました。 披露宴もオシャレな雰囲気のもので　甥の友人のそれなりの余興もあり つつがなく　メデタいものでいた。 イニシエーションとしての結婚式が、商業主義に翻弄され　しかし、当事者にその意識もなくとりおこなわれる滑稽さと言いますか悲哀は、やはりある程度の経験なくしては見えないものなのかもしれません。 まあ、それでも当事者が「幸せ」を確認できれば　世代が違うとはいえ同じような当時のファッション結婚式を挙げたものが　訳知り顔に批評するのは噴飯物なのは十分承知しているつもりです。 縁があれば、私の三姉妹の娘もいづれ結婚するでしょうが　二人にとっての厳粛な式を挙げてもらいたいと思っています。
]]></description>
		<link>http://nazuna.omlog.net/archives/219</link>
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		<title>秋晴れ　秋風　稲藁の薫り</title>
		<description><![CDATA[ずっしりと重い稲藁が、稲刈り機から次々と結索されて刈られていく。心地よい秋風の中　友人夫婦にお手伝いいただいて天日干ししていく。今年は、ある農法を実践して天候もよかったこともあり最高の収穫量になったようだ。
作物を育て収穫する充実感をしみじみ味わっている。日出と共に起き日暮れまで、太陽と星の運行にあわせて生きていくことが　ただそれだけで人の生を充実させていく農業の魅力を堪能している。
夕飯は、２ヶ月ほど前に作った手作りラガービールで乾杯。最高の生活を送っています。
]]></description>
		<link>http://nazuna.omlog.net/archives/218</link>
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		<title>もの想う　秋の夕暮れ</title>
		<description><![CDATA[茜色　夕焼け畦道　秋の風 　　　祖霊慰む　緋の彼岸花 信仰心の薄い私でも、群れ咲く彼岸花の風景にはっとする。 彼岸花の緋色の花に、懊悩に似た狂気を読み取るからだ。 誰もが宿している人の狂気が、心の奥深いところで浄化されるときに燃え揺らめく炎の色ではないかと思うからです。 そして、魂と言うものがあるならば、死した人の魂も同様で、そのために、供養の彼岸花が咲くのではないかと思ったりします。 だから、人はその花の色に惹かれるのではないかと。 
]]></description>
		<link>http://nazuna.omlog.net/archives/217</link>
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		<title>信州の旅 (終)</title>
		<description><![CDATA[&#160;

妻籠へも行ってみようと思ったが、奈良井宿で十分だろうということにしてまたもや、南木曽の温泉に行ってしまった。どうも温泉好きの夫婦である。ホテルの広大な敷地の裏山の頂上に、ヨーロッパのお城のようなつくりの温泉があり、ホテルの車で送迎してくれる。午後4時前後の時間帯のせいもあり、またもや貸切の大名風呂である。西洋建築風のお風呂で、冬に来れば最高のロケーションだなぁと思いながらゆっくりと湯に浸った。風呂上りに、豪華なリクライニングのマッサージ機に体をあずけて極楽気分を満喫した。
今日の宿泊地、名古屋へ向かいドライブする。夕暮れ迫る中、午後７時頃にホテルにチェックインを済ますと旅の最後の夕食へと向かう。名古屋といえば、名古屋コーチンということで、最寄の居酒屋へ。地酒と名古屋コーチンにいくつかの肴で、ゆっくりと時間をとって子供のことや将来について徒然な話をした。
信州の旅も、つつがなく終わった。妻に感謝。朝一番の長崎行きの飛行機に乗り込んだ。家に帰り着くと、暑い夏の陽射しの中を、黒々とした濃い緑色の田圃を一回りするため、野良着に着替え出て行く。
]]></description>
		<link>http://nazuna.omlog.net/archives/216</link>
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		<title>信州の旅(16)</title>
		<description><![CDATA[&#160;
義仲は、二十代の若さで挙兵し三十一歳で討ち死にした義仲の光が輝けば輝くほどその最後は、ひとしお人々の哀感を深くした。松尾芭蕉の墓は、遺言により弟子たちが木曽義仲の墓(大津の義仲寺)の隣に弔らった。芭蕉が、義仲の生涯をどのように見つめていたのかは想像するほかないのだが芭蕉の義仲に寄せる敬慕は、常ならざるものがあったのだろう。
芭蕉は、義仲と平家軍との戦いで戦場と化した北陸・燧(ひうち)が城を眺め、
義仲の寝覚めの山か月悲し　　と詠んだ。
また、芭蕉が、義仲の墓前で詠んだ句は
木曾の情雪や生えぬく春の草 （きそのじようゆきやはえぬくはるのくさ）
意訳:「木曽義仲の剛強な気丈の現れか。春草は墓の辺りに消え残る雪を　　　凌いで早くも芽吹いている。」
この句は、夏草や兵どもが夢の跡　(なつくさやつわものどもがゆめのあと)
奥州・平泉での源義経の自害した高館で詠んだ句と対比されるという。
また、義仲の恩人・斉藤別当実盛を討ち取った戦いで仲義の悲嘆を呼んだ句に
むざんやなかぶとの下のきりぎりす　　　というものもある。
芭蕉の門弟・又玄の句「木曽殿と背中合わせの寒さかな」は、芭蕉の遺言どおり義仲の墓の隣に葬られた芭蕉の墓を詠んだものだ。
どの句も蕉風俳諧の薫りする秀逸の句である。
信州の旅も終わりに近づきつつある。義仲と芭蕉のことについては、よい勉強になった。 
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		<link>http://nazuna.omlog.net/archives/213</link>
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		<title>信州の旅 (15)</title>
		<description><![CDATA[&#160;
平家物語、「木曽殿最後」名場面です。古典の勉強を思い出して忍耐強く読んでみてください。
木曽殿、今井の四郎、只主従二騎に成て宣ひけるは、日来は何共覚ぬ鎧が、今日は重ふ成たるぞや　 今井の四郎申しけるは、御身も労れさせ玉ひ候らはず。御馬も弱り候らはず。何に依て只今一領の御鎧が俄に重ふは思し召れ候可。夫は御方に続く御勢も候はねば、臆病でこそ左は思し召れ候らめ。兼平一人をば余の武者千騎と思し召れ候らへ。爰に射残たる矢七ツ八ツ候らへば、一方は先防参せ候らはん。御心安ふ思し召れ候らへ。あれにしぐろふて見ゆるは粟津の松原と申し候。君はあの松の中へ入せ玉ひて静に御自害候らへ迚、打て行く程に　 又、新手の武者五十騎斗て、追掛たり。&#160;&#160; 兼平は此御敵暫く防参せ候らはん、君はあの松原の中へ入せ玉ひて、静に御自害候らへと申しければ、木曽殿宣ひけるは、義仲六条河原にていかにも成べかりしか共、汝と一所でいかにも成ん為にこそ多くの敵に後を見せて是迄は遁れたんなれ。所々で討れんより、一所でこそ討死をもせめ迚、馬の鼻を並べて既に掛んとし玉へば、今井の四郎急ぎ馬より飛で下、主の馬のみづつきに取付、泪をはらはらと流て、&#160; 弓矢取は、年来日来いか成高名候ふ共、最期に不覚しぬれば、永き疵にて候也。御身も労れさせ玉ひ候らひぬ。御馬も弱って候。 御方に続く御勢も候らはねば、大勢に押隔られて、云甲斐無き人の郎等に組落されて御首捕れさせ玉ひなば、此日頃日本国に鬼神と聞へさせ玉ひたる木曽殿をば、何某か郎等の射奉たりなんど申されん事口惜しかる可。只あの松の中へ入せ玉ひて静に御自害候らへと申しければ、木曽殿去ば迚、只一騎、粟津の松原へぞ駈玉ふ。今井の四郎取て返し、五十騎斗の勢の中へ駈け入り　 鐙踏張り立ち上がり大音声を揚て　 遠からん人は音にも聞け、近くは目にも見玉へ　 木曽殿の乳母子に今井の四郎兼平迚、生年三十三に罷り成。去者有りとは、鎌倉殿迄も知し召れたるらんぞ。&#160; 兼平討て右兵衛佐殿の御見参に入よや迚、射残たる八筋の矢を指詰引詰散々に射る。死生は知ず、矢庭に敵八騎射落し、其後太刀を抜て切て廻るに、面を合する者ぞ無。只射捕や射捕迚、指詰引詰散々に射けれ共、 鎧好れば裏掻かず、透間を射ねば手も負わず、 木曽殿は只一騎、粟津の松原へ駈玉ふ程に、比は正月二十一日、入相斗の事なれば、薄氷は張たりけり。深田有共知ずして、馬を颯と打入たれば、馬の頭も見へざりけり。 あをれ共あをれ共、打て共打て共働かず。&#160; 斯りしか共、今井が行衛の覚束無さに振仰玉ふ内甲を、相模の国の住人・三浦の石田の次郎為久、究竟の弓の上手成ければ、追掛り能引てひょうど放つ。木曽殿内甲を射させて痛手成ば、甲の真額馬の頭に押当て、俯し玉ふ所を、石田が郎等二人落合、木曽殿の御首をば終に其所にて　 射奉つてけり。&#160; やがて首をば太刀の先に貫き、高く指上げ大音声を揚て、此日比日本国に鬼神と聞へさせ玉ひたる木曽殿をば、相模の国の住人、三浦の石田の次郎為久が討奉つたるぞやと名乗たりければ、&#160; 今井の四郎は、軍しけるが是を聞て、今は誰をかかばはん迚、軍をばすべき、是見玉へ、東国の殿原、日本一の剛の者の自害する標準よ迚、太刀の先を口に含み、馬より逆様に　 飛落て貫かつてぞ失せにける。 偖こそ粟津の軍は破れにけれ。&#160; 
]]></description>
		<link>http://nazuna.omlog.net/archives/212</link>
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		<title>信州の旅　(14)</title>
		<description><![CDATA[木曽節木曽のナァー　なかのりさん木曽のおんたけ　ナンチャラホーイ夏でも寒い　ヨイヨイヨイ

奈良井宿から馬込宿へと向かう。国道沿いからは、「御岳さん」は見えない。ガイドブックをみてみると、ずっと見えないそうだ。木曽に来て「御岳さん」が見えないのはがっかり。JR宮ノ越駅から木曽川を渡ると、すぐ右手に義仲館という資料館がある。今回の旅で、事前にいろいろ調べた木曽義仲だ。平家物語では、木曽義仲軍は、都での乱暴狼藉の田舎武将として描かれているが、義仲その人は、大変な兵略家であり情義に厚い人である。江戸期には、義仲は人気があり義仲の武者絵も人気があった。源頼朝は、政略家であり非情な性格であった。ただ、恐妻家であり、正妻・政子には一生頭が上がらなかったようである。
河内源氏の棟梁・源為義の長男が義朝、次男が義賢。義朝の三男が頼朝。義賢の長男が義仲。保元の乱で、源為義は長男・義朝に斬首される。保元の乱の一年前次男・義賢は、義朝の長男・悪源太義平に殺されている。平治の乱により、源義朝一族は、ことごとく殺され頼朝・範頼・義経が赦される。つまり、源義仲（木曽義仲）にとって源頼朝は、父の敵の兄弟に当たる。
木曽義仲は、平家の目をのがれ木曾谷の豪族、中原兼遠の庇護下に育ち、通称を「木曾次郎」と名乗る。ここで、巴御前と結ばれ、いよいよ打倒平家の旗を揚げるのだ。ご存知のように、木曽は山また山の地方で兵力といったところで多寡が知れている。兵を集めるには、信州の豪族に加勢を頼むほかないのだが、平家全盛の世の中で味方になる豪族は少ない。源頼朝も、平家への反乱初期のときも同様だった。
私たちは、歴史を結果から眺めるので命を懸けた乾坤一擲の決断を傍観者的視点で見てしまうのであるが、歴史の結節点をまた、その躍動を手に汗して感じるためには、あとづけされた歴史理論＝唯物史観などより、平家物語などの文学から学ぶほうがよほど上等である。 
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		<title>信州の旅 (13)</title>
		<description><![CDATA[&#160;

午後11時頃、松本から木曽路・奈良井宿へ向かい出発。国道沿いに観光リンゴ園が並んでいる。やはり信州に来たんだなぁと思う。リンゴは、寒い地方の果樹だと思っていたが、確か鹿児島でも栽培されている。品種改良されたものだと思うが、すごい技術革新だ。
 
木曽街道にいるとさすがに山また山の風景だ。沿道に漆塗りの工芸店が、目立ち始めてくる。お昼過ぎに、奈良井宿に到着する。昔ながらの宿場が残っている。そのほとんどが、何がしかのお店になっていてお土産や飲食店となっているが、なかには、昔ながらの旅籠として営業しているところもある。外国人に人気があるのかもしれない。ここは、水が豊富で、いたるところに水のみ場があり、冷たくて美味しい。道の幅は、約3ｍくらいで、ゆったりとしている。素朴な疑問なのだが、中世頃の道幅はいったいどれくらいあったのだろうか。というのも、平安末期から戦国時代にかけての合戦での行軍は、道幅の関係で一列縦隊と思われ、数千人単位の大きな部隊では、先頭と最後までは、槍などの武器を持っていると数キロにもおよぶのであろうと思われるからだ。これでは、機敏な行軍はできないのではないかと思ったりする。また、中世までは、山城での戦闘がほとんどだから山の急勾配での戦いは、相当な体力が必要で、私たちがテレビ等で見る戦いと相当の相違があると思われる。また、鎌倉時代以前の馬の産地（牧）である木曽とそれ以後の奥州の馬にしてみても小型の馬であり、サラブレッドに跨って颯爽と駆使するテレビ・映画の時代劇の落差を考えてみると、武将の風景もチンケに見えてくるのが本当のところなのだ。源頼朝が、奥州藤原氏を滅ぼすまでは、木曽馬が最高の軍馬であり、時折、奥州から砂金と共にもたらされる奥州馬は、畿内・近畿の武将にとっては垂涎の的だったという。
お腹も空いたので、奈良井宿の蕎麦屋で昼食をとることにした。蕎麦も、今回で食べ納めである。　――――　昨夜の蕎麦がうまかった。 
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