信州の旅 (9)
蕎麦については、昨年、友人のところで打ってもらったものが最高に美味しかった。
江戸流の打ち方で、極細の更科で喉越しがなんとも言えず
今まで食べていた蕎麦が何だったのかと感嘆した。
その味をもう一度味わいたくて信州旅行を楽しみにしてきた。
草津温泉の蕎麦は、思ったようなものではなく残念だった。
やはり観光地のお店では、期待できないものなのか、
いやいや、蕎麦の情報誌を調べなかったための失敗だ。
喰い意地が汚いことは認めるが、感激するような蕎麦を食したいものである。
昼食後、真田幸村ゆかりの地、上田市へ向かう。
午後2時ころ上田城に到着。
現在ある上田城は、江戸初期に造られたもので、真田昌幸が徳川と戦った二度の上田合戦の往時の城は関が原戦役後 破却される。徳川にとって真田は、鬼門である。ともかく相性が悪い。
それはともかく、上田市立博物館にて、一通り見学し、職員の方にお聞きした。
真田家が、ここ上田を治めていたのはそう長いものでもなく 治民に良政を敷いたと
いうことも聴かないのですが、今の上田市民が真田家をこんなに顕彰しているのは
どんな理由によるものなのかと。
「幸村」という名前の初出は江戸時代の寛文12年(1672年)成立の軍記物語『難波戦記』にあり、史実として真田信繁という名前以外では記録されていない。
また、関が原後、九度山に配流されていた信繁が、大阪城に入城するとき門番に、その身なりから山賊と勘違いされたとも言われている。
徳川方も、入城したのが、戦上手の父、真田昌幸でないことに安堵している。
大阪冬の陣での真田丸の武功により初めてその名が知られ、冬の陣での徳川家康の本陣まで肉薄したことによりその武名が一気に高まった。
つまり、真田幸村そのものが、読み物、講談によってずいぶん脚色されたものであり、
「真田十勇士」という表現をはじめて用いたのは大正時代に刊行された立川文庫であり、池波正太郎の「真田太平記」によって現代の人気となっている。
それに対しての明確なお答えはなかたが、素直に武田信玄・上杉謙信の人気と
同じと考えればよいのだろうか。
一時期流行った「まち起こし」の素材として焦点が当たったのであろうか。
ともあれ、町中に、六文銭の旗が林立している。
それはそれで、結構なことである。
上田市立博物館の隣に山本鼎記念館がある。
彼のことは、全く知らなかったのでついでといっては失礼だが、
外が暑かったせいもあり、涼むつもりで見学した。
館に入って、彼の代表作のひとつ「漁夫」の版画を見て
ああ!この人だったのかと合点がいった。
山本鼎は、まったく胆力のある人である。
美術の大衆化、民衆芸術運動のなかに身を投じた版画家、洋画家、教育者である。
社会運動家といったほうがいいかもしれない。
まったく新しい理念を胸に秘め多くのリスクを背負って事業やった。
炎のように燃えた社会改革への情熱のまま驀進したように思える。
想像以上の障害に負けず、社会的名声にも見向きもせず自らの使命に生きた
まさに明治の人である。
人の幸せとは、自らの志を理解してくれる人を得ることではあるまいか。
その意味で、山本鼎は、未だに幸せであると思う。



